エー、今年最初のカキコです。
前回書いた「孤独のグルメ・東長崎編」を
再び(地上波)で観られて満悦のナンバラでございます☆
珍しく、つい昨日あったイベントをアップします。
桜坂劇場で、あの伝説の沖縄マンガ誌
「コミックおきなわ」の2代目&3代目編集長が
あの当時を語るというトークショーがありまして。
3代目編集長は、今もコミチャンの編集長をしている
我らが島袋さんなのですが、その前、2代目編集長は
映画「ナビィの恋」「パイナップルツアーズ」などの監督
中江裕司さんだったのです。
当時私は「コミおき」ガチ読者だったのでよく覚えてるのですが、
中江さんは、琉大では映画研究会で活動し、学生でほぼ本格的な
映画(数名の監督でのオムニバス制作)を創るといった方と知っており
確かに
「なぜ映画の人がマンガ誌の編集長に?」と思ってたのですが、
今日、初めて真相を聞けたのですよ。
後に「コミおき」で「げーとぼーるブルース」を描いた
田名俊信さんが、「パナリにて」という中江さんの作品を目にして
「中江さんならストーリー作りできるし、マンガの編集もできるのでは?」
と、声をかけたのがきっかけだったそう。
「コミックおきなわ」は創刊前、1年ほどの準備期間があったそうで
初代編集長の須藤氏と、某印刷会社の当時の社長が
沖縄の文化を広くわかりやすい形にしたいという思いから
「マンガ雑誌」の形で世に出したものでした。
中江さんも準備期間から編集に携わり、実は創刊号を出した直後に
「コミおき」を辞した須藤氏の後を継ぎ、2代目編集長になったわけ。
島袋さんは、東京で編集の勉強をしてる所に
沖縄から送られた「コミおき」を目にし、
「ここで仕事したい!」と志し、帰沖後面接を経て入社。
島袋さんも入社半年で3代目編集長に就任するという、すごい状況に…。
そのうち、立ち上げ当初の「沖縄の文化うんぬん」からは
若干方向性が違ってくるのですが、
『ふだん使ってるウチナーグチ&ウチナーヤマトグチが活字になった』
というのは、当時画期的なことだったし、何よりも
『沖縄の人(執筆陣)だけでマンガ雑誌が成立するのか?!』
と内外からは大きな反響があり、中江さんは編集長として、
様々なメディアの対応をしていたといいます。
時には、
内田春菊さんご本人から
「コミおきがんばって!」と投書が届いたり
(中江さん、感激して読者コーナーで紹介していました!)
で、実は私、高校生だった当時、投稿したくてうずうずするも素人ならではの
「壮大な話ばかり考えて、
規定ページ数にまとめる自信全くなし!」
だったため、「せめてこの目でプロのレベルを見て勉強したい!」と
電話で中江さんにお願いして、先生方の生原稿を見せてもらったんです。
持ち込みではなく、「会社訪問」として。
鳥肌、立ちましたね〜。
直筆の原稿がきれいなんですよ。
線はもちろん誌面で目にするまんまの綺麗さだし!
線が飛び出たり、インクをかすってしまったりを
きれいにホワイト(修正液)で消していて、
今考えると、ど素人なのに素手で触らせてもらえたのが
恐れ多かったよ!
話はその他、印刷会社ならではの事情だったり
営業や当時の町の書店さんの努力の話など
そして「今現在」の話も。
島袋さんのお仕事として拙作の話も出て、
私もちょこっと解説でしゃべらせてもらったり。
イベント終了後は、拙作を販売用に5部
劇場内のショップ「ふくら舎」に置かせていただけました。
ありがとうございます。
「コミックおきなわ」読みたいという方も
「ふくら舎」へどうぞ。
ちなみにこちらは
非売品ですのでご注意を。
http://panafukura.ti-da.net/e7112469.html